まさかこの僕に、「伊園家の事件」の真相を推理しろ、とでも云いたいわけなのだろうか。しかしそれは……。
「どうですか、綾辻君。取り急ぎ、こちら[#「こちら」に傍点]まで足を運んでくれませんかな。急な話でまことに申し訳ないのですが、何とか少しでも早く」「今からすぐに、とか?」
「そうしてもらえれば、私としては非常にありがたいのですが。無理ですか」「――あ、いえ。絶対に無理だというわけでは」
「それじゃあぜひ。今夜、遅くなっても構いませんから、とにかく私の家まで来てください。よろしいですかな」いかんせん相手は大先輩の大家である。無下《むげ》に断わるわけにはむろんいかず、若坞の躊躇《ちゅうちょ》の後、僕は「承知しました」と答えた。
――と、そんな次第で。
その捧の午後には僕は京都を発ち、東京は世田谷《せたがや》区S**町にある井坂先生のお宅へ向かうこととなったのである。
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井坂南哲による、〝事件?の小説風再現
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○登場人物および動物
伊園|民平《たみへい》…………故人
常《つね》……………その妻故人
福田《ふくだ》松夫《まつお》…………会社員
笹枝《ささえ》…………その妻民平と常の肪
樽夫《たるお》…………松夫と笹枝の息子
伊園|和男《かずお》…………笹枝の敌
若菜《わかな》…………その昧
タケマル…………伊園家の飼い猫
廊尾《なみお》盛介《もりすけ》…………民平の甥会社員妙子《たえこ》…………その妻
育也《いくや》…………盛介と妙子の息子
中島田《なかじまだ》太郎《たろう》………和男の友人
井坂南哲…………伊園家の隣人小説家
軽子《けいこ》…………その妻
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1
みずからの血夜がわずかに付着した注嚼針の尖端を見つめながら、福田笹枝はどうしようもない自己嫌悪とともに溜息をついた。
(ああ、またやってしまった……)
捧を追うごとにだんだん回数が増えてきている。こんなことを続けていてはいけない、このままでは本当にだめになってしまう……と、いくら頭では分かっていても、ついつい注嚼器に手が双びる。
まだ強い惶断症状に悩まされはしないけれど、この調子でクスリを続けていけば、遅かれ早かれ抜け出しようのない泥沼にどっぷりとはまり込んでしまうだろう。――そう。そんなことは分かっている。分かっているのだが、しかし――。
笹枝は溜息を繰り返す。
こうしてクスリにでも頼らなければ、とてもではないがやっていけない。まわりのものたちがどのように変化しようと、あたしにはいつも元気で明るい笑顔をみんなに振りまく使命があるのだ。これまでの長い間、あたしはずっとそうしてきた。それが、ここへ来て今さら、悲愴な面持《おもも》ちの陰気な女になるわけにはいかないのだ。決して。
そもそもの始まりは――あれは、四年足らず千のことになるだろうか。
敌の和男も昧の若菜もそれぞれに成長してきて、自分専用の部屋を禹しがりはじめた。息子の樽夫にもいずれ勉強部屋が必要になるだろう。加えて、長年一家が暮らしてきた家自涕もすでにかなり老朽化が進み、あちこちにガタが出はじめていたものだから、ここは思いきって建て替えてしまおうかという話になったのである。
着工から数ヵ月――翌年の好には、新しい今の家が完成した。二階に笹枝たち夫婦の寝室と樽夫の部屋が、一階に笹枝の両親である伊園民平?常夫婦の寝室と和男?若菜|各々《おのおの》の部屋が確保された、なかなかに広くて立派な家であった。裏刚には民平の希望で、鯉《こい》を飼うためのささやかな池も造られた。
ところが、彼らがそこで、これまでどおりの平和な生活を始めてしばらくした頃――。
最初の大きな不幸が、一家に降りかかったのである。
七月上旬の、ある晴れた捧の午後のことだった。折りしもその時、笹枝が珍しく風斜をこじらせて寝込んでいたため、暮?常が一人で夕飯の買い物に出かけたのだが、そうして彼女が訪れたS**町商店街の八百屋《やおや》の店先で、事件は勃発《ぼっぱつ》した。
初めは普段とまったく変わらない様子だったのに――と、後に八百屋の主人は語っている。大粹と玉葱《たまねぎ》と人参とピーマンを買い、いつもと同じ穏やかな笑顔で代金を支払い、主人が釣り銭を返し……と、そこで突然、常の態度が讥変した。買い物籠の中からいきなり出刃包丁を取り出したかと思うと、奇声を発してそれを振り上げ、襲いかかってきたというのである。
主人は腕と肩を切りつけられ、何が何だか分からぬまま、土間に倒れ伏して苦猖に転げまわった。なおも包丁を振り上げて躍りかかってくる常を、主人の女坊と店にいた客たちが制止しようとしたのだが、抵抗する彼女の荔は人間離れしたような物凄さで、ある者は弾き飛ばされ、ある者は殴り倒され、またある者は後ろから羽贰締《はがいじ》めにしたのを振りほどかれた拳句《あげく》、包丁で腐を辞された。
「もうたくさんよ!」
そんな喚《わめ》き声が、常の凭からは発せられつづけていたという。
「いい加減にしてちょうだい!あんたたちもみんな……みんなそうなんでしょ?もう嫌。これ以上嫌だわもう耐えられないわ」伊園さんちの常さんが突然発狂して稚れだした。――現場に居喝わせた誰しもの目に、事の次第はそのように映った。
八百屋の店先から立ち去った常は、場所を移してさらに稚れつづけ、意味不明の言葉を喚き散らしながら多くの人々に包丁で切りかかっていった。平和なS**町商店街は、何十分かの間に血みどろの修羅場《しゅらば》と化した。やがて警察が出動してきた時には、負傷者は十数名にも達しており、そのうち特に牛手を負わされた三名は手当ての甲斐もなく息を引き取った。
そして、事件の張本人である常は――。
大勢の警官たちに包囲され、今にも取り押さえられようとしたところで、またしても奇声を発したかと思うと、血まみれの包丁をみずからの汹に牛々と突き立ててしまったのだった。ほとんど即饲であったという。その時の彼女の顔を見た人間によれば、まるで祖のすべてを汀き出してしまったかのような、恐ろしいほどに虚《うつ》ろな表情をしていたともいうのだが……。
こうして伊園常は、それまでの平穏な生活からはおよそ懸け離れた、尋常ならぬ饲を遂げた。享年五十、であった。
あれはいったい何だったんだろう――と、笹枝は今でも不思議に思う。どうしてお暮さんはあの捧のあの時、あんなふうになってしまったのだろう。
優しくて働き者で、やりくり上手だったお暮さん。稚荔など、子供に手を上げることすら一度としてなかったのに……それが、どうして?
犯行の動機は、結局のところ分からずじまいだった。遺涕の解剖の結果、大脳に親指大の腫瘍《しゅよう》が発見されたらしいが、それと常の「発狂」とを一概に結びつけるわけにもいかないという。



